随想 史都萩(第23号)へのメッセージ 佐々木滋郎(ささきしげお)2007/4/15
『史都萩』は勿論、新聞、ラジオ、テレビのニュースや天気予報までも萩のことなら毎日関心を持って視聴しております。
萩中学校を卒業して進学のため萩を出て六十四年になります。『故郷』『赤とんぼ』などの唱歌や童謡は幼児の生家近辺の情景を歌ったのではないかと、今なお夢に見る故郷忘れ難く、築約百年の陋屋(ろうおく)をそのままに残して萩市のお世話になっております。
瀬戸内寂聴さんは「京都と高山と金沢が日本ではまだ美しさが残っている町だとおもっていたが、その三つとも近年は観光ずれして、いやなところになってしまった。萩に来て私は蘇生(そせい)した思いがした。(中略)嵯峨に終(つい)の栖(すみか)を定めたばかりの私は心からしまったと思った。隠棲(いんせい)するには萩ほど素晴らしい土地はないように思う。」と記しています。(涯(はて)しない旅、1980)
京都出身の植村次郎氏は、「萩の町は凛とした風格がある。松下村塾、この小さな建物で切磋琢磨しあった憂国の若者達が危急存亡の日本近代化を実現したのか!」と感想を記しております。(旧制山口高等学校同窓会誌、1904)
萩・石見空港から山陰線で萩に到着した京浜地区在住のある旅行者は「山陰海岸の美しさに心が洗われました。誰でもこの景色を見れば、悪い心は起きないのではないでしょうか。」と感慨深く語っていました。
加藤六美元東京工業大学学長(元建築学会長、元人事院人事官)は、「こんな良いところは他にない。松陰先生と歴史を見せて語るだけでは萩の将来はどうなるのでしょうか。哲学・美術系などの高い学問教育の場所として最高の地ですね。」と語られました。
萩中学校の同期生浦上敏朗さんが、素晴らしい美術館を導入されたことを、早速加藤先生に報告しておきました。
筆者は勤め時代には社用の他に、萩の宅の所在地も入れた名刺を携行して場合により差し出すことにしておりました。萩の知名度は高くほとんど例外なく「萩ですか」と興味を示し、ある人は萩を訪れたことを自慢し、ある人は萩に敬意を払ってくれているように感じました。
まさに美しく品格ある萩ではないでしょうか。
平安時代頃までは現在の市街地の殆どが海面下であったそうですが、取り巻く周囲の山裾にはかなりの古い文化があったといわれています。
東西旧海岸線に沿って多数の古代の土器が発見されております。(山本勉彌:萩陶磁器、1950)
潮音山観音院、現在は霊椿山大照院に併祀の月輪山観音寺、椿八幡宮と湖景山光福寺、日輪山南明寺、さらに渡舟により白牛山竜蔵寺などの古社寺が並んでおります。旧海岸道は今もその名残を留めており、観音巡礼古道でもあったのではないかと想像されます。(参考/清水満幸:萩市郷土博物館研究報告13、2003)
大屋観音橋は旧海岸道と旧陰陽連絡道との丁字路、後の萩往還の表玄関に位置しています。付近には戦前までは、茶屋をはじめ俥(くるま)屋、蹄鉄(ていてつ)鍛冶屋髪結床などがありました。旅立つ人々は、旅装を点検、整えて名残を惜しみ、往還から来た旅人は田床山、面影山などの山々を両翼にはじめて見える指月山を眺めて一服し、城下に入る身繕い(みづくろい)をしたことでしょう。
1877年11月、萩の乱では付近一帯は激戦地となりました。
寺崎央氏は「大屋観音橋周辺の部落は、ぶらぶらしているだけで心和んでくる。」と書き留めています。(全日空、翼の王国、2002)おのづから観音巡礼古道と萩往還との十字路の歴史の深みを感じたからに違いありません。
現在ではこの古道に沿って萩焼窯がが連なっております。また若い起業家達がアンティーク店やアイデア喫茶などを経営し始めております。旧市内の名所や遺跡は勿論ですが、萩往還に加えて旧観音巡礼古道散策もどうでしょうか。
美しさと品格を保つことは、厳しいことではありますが、明倫館、松下村塾以来多数の人材を送り出した教育の聖地萩が大都会集中の流れにかかわらず、人材を生み続けながら発展されるよう祈念いたします。
佐々木滋郎